「フィクション短編:延吉・流京ホテルの地下」 作:低勇気 (2019年8月25日)
1.延吉到着
20XX年8月某日、27探査隊員、ソン・テクを乗せた飛行機は、中国朝鮮族自治州の延吉朝陽川国際空港にランディングした。
関空離陸後の約3時間、ソン・テクは諜報機関NKJより与えられた任務遂行の手順を頭の中で一つ一つ確認していた。数々の困難な任務を完璧にこなしてきたソン・テクではあるが、今回はなぜか気が滅入った。
しかし、この任務に失敗すれば、ソン・テクは確実に28探査隊員、チャンのように処刑される。失敗は許されない。
ソン・テクに与えられた任務は、「延吉・流京ホテル地下の秘密クラブ『苹陽館ナイト』を探査しろ」だった。
ソン・テクは日本人を名乗り予め流京ホテルのホームページより宿泊予約をしていた。以前は、電話でしか予約をできなかったのだが、インターネット予約が可能になり、任務遂行が楽になった。もちろん、ソン・テクは日本旅券も所持している。
8月の延吉は、大阪よりも湿度が低く過ごしやすい。しかし、快適な気候は、むしろソン・テクの気を重くした。
2.潜入
ソン・テクが乗ったタクシーが、ホテルの前で止まった。タクシーのメーターは22元だったが、運転手はニコニコしながら指を3本立て「30元、冗談だけど」と言った。このところ、延吉では空港から市内に向かうぼったくりタクシーの取り締まりが厳しく、運転手も苦労しているようだ。ソン・テクは気前よく30元手渡した。任務成功を祈りつつ・・・
タクシーを降りたソン・テクは流京ホテルを見上げた。
「この前に来たときは、勤労党の資金を調達する39号室傘下の楽園指導局傘下だったなぁ・・・」
ソン・テクは流京ホテルの回転ドアを押してホテルに入った。カウンターには、愛想の良い女性が立っていた。
「アンニョンハシムニカ、蜂矢さん。1年ぶりですね」
「蜂矢晋一」はソン・テクが日本人になりすますときに使う偽名だ。
「アンニョンハシムニカ、こんにちは」、ソン・テクは笑みを浮かべながらカウンターの女性に挨拶をした。しかし、チェック・インは探査隊員にとって最も緊張する瞬間であり、それは数々の難関を切り抜けてきたソン・テクにとっても同じであった。
「あの純粋な笑顔の下には、流京指導総局か対外奉仕総局が派遣した工作員が隠れているのかもしれない」
ソン・テクは、日本旅券と共にクレジットカードを鞄から出した。
「クレジットカードでデポジットを支払うことはできますか?」
「すみません、現金でお願いします」
もちろん、ソン・テクは流京ホテルがクレジットを受け付けないことなど百も承知だった。しかし、自分が日本人であることを印象づけるために敢えてクレジットカードを提示したのだ。
ソン・テクはカードキーを受け取り、511号室にエレベーターで向かった。部屋はいつものように清潔に掃除されており、滞在に必要なアメニティは全て揃っていた。ごく普通のホテル。
「ごく普通か・・・」
ソン・テクは直ぐにでも探査活動を開始できたが、派手な動きをすれば流京指導総局の工作員に疑われる。流京ホテルでは、各部屋でwifiが使えるようになっているが、ソン・テクは香港の特殊SIMを使って本国との定時連絡をした。もちろん、wifiを全く使わなければ怪しまれるので、延吉関連の情報検索などはwifiを使って適宜行った。
3.怪しいカフェスペース
6時が過ぎた頃、ソン・テクは探査活動を開始した。
流京ホテル1階にはカフェスペースがある。このカフェスペースでは、勤労党の宣伝テレビ放送がいつも流されている。ソン・テクはこのホテルに来ると、カフェスペースで麦酒を飲みながらテレビを視聴し、勤労党関連の情報収集をする。
ソン・テクはカフェスペースをのぞき込んだ。ソン・テクはNKJの幹部から「あそこには、明らかに地元の中国人、朝鮮族とは雰囲気の違う人物がいる」という話を聞かされたことがある。
カフェスペースの隅の方には、2組の男性がおり、麦酒を飲みながら談笑していた。怪しい。
「国家機関」の人間だろうか。ソン・テクは背中に冷たいものを感じた。長年、探査員をしていると普通の人々さえも「国家機関」の人間ではないかと感じてしまう。
「感覚が麻痺してしまったか・・・そんな・・・」
自分の感覚を確かめたかったソン・テクではあるが、「苹陽館ナイト」探査に影響する行動は控えることにし、今回は、カフェスペースでの情報収集は見送った。
4.万年白氷会館
ソン・テクは、一足先に延吉入りしていた31探査隊員ソル・ジョンと合流した。ソル・ジョンは経験が浅い探査隊員で、これまでに敵の捜査機関に尋問された経験がある。しかし、そんなソル・ジョンではあるが、今回の任務では使うことにした。
ソル・ジョンと合流したソン・テクは万年白氷会館へと向かった。万年白氷会館は勤労党の工作拠点と言われている。敢えてそのような場所に行くのは、他でもないソル・ジョンがいるからである。ソル・ジョンは勤労党首を称賛する歌が得意で、歌わせておけば10曲でも15曲でも歌い続ける。
ソン・テクは、ソル・ジョンに歌を歌うことを命じた。万年白氷会館の女性達はソル・ジョンの回りに集まり一緒に歌っている。
その間、ソン・テクは、ゆっくりと氷山麦酒を飲みながら、「苹陽館ナイト」探査の段取りを確認していた。
3時間ぐらい経ったであろうか、時計は12時に近づいていた。
ソン・テクとソル・ジョンは店を出た。ソン・テクは「夜通し酒を提供」する「苹陽館ナイト」探査への道へと向かった。
5.暗闇
12時少し過ぎに流京ホテルに戻ってきた。「夜通し酒を提供」する「苹陽館ナイト」だから、12時過ぎから賑わってくるはずだ。
ところが、流京ホテルは暗闇と静けさに包まれていた。人と言えば、ホテルの階段に座りたばこを吸っている夜警の男性だけだった。
流京ホテルの防音は並程度だ。団体室で歌舞公演をやっていれば、カフェスペースはもちろん、3階ぐらいまでは歌声が聞こえてくる。ソン・テクも団体室への潜入を断念し、カフェスペースで歌を聞いていたことが何回もある。
それなのに「苹陽館ナイト」の音は全く聞こえてこない。完璧な防音設備でも施しているのか・・・
「今日は休業なのかもしれない」
ソン・テクは探査活動を中断し、エレベーターに乗った。
6.焦燥
翌日も翌々日もソン・テクはソル・ジョンと共に万年白氷会館で時間を潰し、夜半過ぎに流京ホテルへ戻った。
夜警の男性はロビーで毛布にくるまってぐっすり眠っており、ソン・テクが戻ったことにすら気付かない。
流京ホテルは静寂と暗闇に包まれている。
「明日は撤退の日だ。俺もチャンのように・・・」
7.闘争
撤退の日の夜が明けた。撤退予定時間までには、まだ数時間ある。
ソン・テクは、決死の覚悟で地下へと繋がる秘密の出入り口を探すことにした。
トイレの中に秘密のドアがあるのではないのか。壁の向こうに秘密の階段があるのではないのか。壁にかけられた絵の裏に秘密の扉を開くスイッチがあるのではないのか。エレベータのボタンがコードになっており、特定の番号を押すと地下まで降りていくのではないのか。
「苹陽館ナイト」はなかった。
その後、ソン・テクがどうなったのか知る者はいない。
(完)

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参考資料:Daily NK Japan、「金正恩氏が「美人ホステス」をしいたげるセコいやり口」、https://dailynk.jp/archives/125404
20XX年8月某日、27探査隊員、ソン・テクを乗せた飛行機は、中国朝鮮族自治州の延吉朝陽川国際空港にランディングした。
関空離陸後の約3時間、ソン・テクは諜報機関NKJより与えられた任務遂行の手順を頭の中で一つ一つ確認していた。数々の困難な任務を完璧にこなしてきたソン・テクではあるが、今回はなぜか気が滅入った。
しかし、この任務に失敗すれば、ソン・テクは確実に28探査隊員、チャンのように処刑される。失敗は許されない。
ソン・テクに与えられた任務は、「延吉・流京ホテル地下の秘密クラブ『苹陽館ナイト』を探査しろ」だった。
ソン・テクは日本人を名乗り予め流京ホテルのホームページより宿泊予約をしていた。以前は、電話でしか予約をできなかったのだが、インターネット予約が可能になり、任務遂行が楽になった。もちろん、ソン・テクは日本旅券も所持している。
8月の延吉は、大阪よりも湿度が低く過ごしやすい。しかし、快適な気候は、むしろソン・テクの気を重くした。
2.潜入
ソン・テクが乗ったタクシーが、ホテルの前で止まった。タクシーのメーターは22元だったが、運転手はニコニコしながら指を3本立て「30元、冗談だけど」と言った。このところ、延吉では空港から市内に向かうぼったくりタクシーの取り締まりが厳しく、運転手も苦労しているようだ。ソン・テクは気前よく30元手渡した。任務成功を祈りつつ・・・
タクシーを降りたソン・テクは流京ホテルを見上げた。
「この前に来たときは、勤労党の資金を調達する39号室傘下の楽園指導局傘下だったなぁ・・・」
ソン・テクは流京ホテルの回転ドアを押してホテルに入った。カウンターには、愛想の良い女性が立っていた。
「アンニョンハシムニカ、蜂矢さん。1年ぶりですね」
「蜂矢晋一」はソン・テクが日本人になりすますときに使う偽名だ。
「アンニョンハシムニカ、こんにちは」、ソン・テクは笑みを浮かべながらカウンターの女性に挨拶をした。しかし、チェック・インは探査隊員にとって最も緊張する瞬間であり、それは数々の難関を切り抜けてきたソン・テクにとっても同じであった。
「あの純粋な笑顔の下には、流京指導総局か対外奉仕総局が派遣した工作員が隠れているのかもしれない」
ソン・テクは、日本旅券と共にクレジットカードを鞄から出した。
「クレジットカードでデポジットを支払うことはできますか?」
「すみません、現金でお願いします」
もちろん、ソン・テクは流京ホテルがクレジットを受け付けないことなど百も承知だった。しかし、自分が日本人であることを印象づけるために敢えてクレジットカードを提示したのだ。
ソン・テクはカードキーを受け取り、511号室にエレベーターで向かった。部屋はいつものように清潔に掃除されており、滞在に必要なアメニティは全て揃っていた。ごく普通のホテル。
「ごく普通か・・・」
ソン・テクは直ぐにでも探査活動を開始できたが、派手な動きをすれば流京指導総局の工作員に疑われる。流京ホテルでは、各部屋でwifiが使えるようになっているが、ソン・テクは香港の特殊SIMを使って本国との定時連絡をした。もちろん、wifiを全く使わなければ怪しまれるので、延吉関連の情報検索などはwifiを使って適宜行った。
3.怪しいカフェスペース
6時が過ぎた頃、ソン・テクは探査活動を開始した。
流京ホテル1階にはカフェスペースがある。このカフェスペースでは、勤労党の宣伝テレビ放送がいつも流されている。ソン・テクはこのホテルに来ると、カフェスペースで麦酒を飲みながらテレビを視聴し、勤労党関連の情報収集をする。
ソン・テクはカフェスペースをのぞき込んだ。ソン・テクはNKJの幹部から「あそこには、明らかに地元の中国人、朝鮮族とは雰囲気の違う人物がいる」という話を聞かされたことがある。
カフェスペースの隅の方には、2組の男性がおり、麦酒を飲みながら談笑していた。怪しい。
「国家機関」の人間だろうか。ソン・テクは背中に冷たいものを感じた。長年、探査員をしていると普通の人々さえも「国家機関」の人間ではないかと感じてしまう。
「感覚が麻痺してしまったか・・・そんな・・・」
自分の感覚を確かめたかったソン・テクではあるが、「苹陽館ナイト」探査に影響する行動は控えることにし、今回は、カフェスペースでの情報収集は見送った。
4.万年白氷会館
ソン・テクは、一足先に延吉入りしていた31探査隊員ソル・ジョンと合流した。ソル・ジョンは経験が浅い探査隊員で、これまでに敵の捜査機関に尋問された経験がある。しかし、そんなソル・ジョンではあるが、今回の任務では使うことにした。
ソル・ジョンと合流したソン・テクは万年白氷会館へと向かった。万年白氷会館は勤労党の工作拠点と言われている。敢えてそのような場所に行くのは、他でもないソル・ジョンがいるからである。ソル・ジョンは勤労党首を称賛する歌が得意で、歌わせておけば10曲でも15曲でも歌い続ける。
ソン・テクは、ソル・ジョンに歌を歌うことを命じた。万年白氷会館の女性達はソル・ジョンの回りに集まり一緒に歌っている。
その間、ソン・テクは、ゆっくりと氷山麦酒を飲みながら、「苹陽館ナイト」探査の段取りを確認していた。
3時間ぐらい経ったであろうか、時計は12時に近づいていた。
ソン・テクとソル・ジョンは店を出た。ソン・テクは「夜通し酒を提供」する「苹陽館ナイト」探査への道へと向かった。
5.暗闇
12時少し過ぎに流京ホテルに戻ってきた。「夜通し酒を提供」する「苹陽館ナイト」だから、12時過ぎから賑わってくるはずだ。
ところが、流京ホテルは暗闇と静けさに包まれていた。人と言えば、ホテルの階段に座りたばこを吸っている夜警の男性だけだった。
流京ホテルの防音は並程度だ。団体室で歌舞公演をやっていれば、カフェスペースはもちろん、3階ぐらいまでは歌声が聞こえてくる。ソン・テクも団体室への潜入を断念し、カフェスペースで歌を聞いていたことが何回もある。
それなのに「苹陽館ナイト」の音は全く聞こえてこない。完璧な防音設備でも施しているのか・・・
「今日は休業なのかもしれない」
ソン・テクは探査活動を中断し、エレベーターに乗った。
6.焦燥
翌日も翌々日もソン・テクはソル・ジョンと共に万年白氷会館で時間を潰し、夜半過ぎに流京ホテルへ戻った。
夜警の男性はロビーで毛布にくるまってぐっすり眠っており、ソン・テクが戻ったことにすら気付かない。
流京ホテルは静寂と暗闇に包まれている。
「明日は撤退の日だ。俺もチャンのように・・・」
7.闘争
撤退の日の夜が明けた。撤退予定時間までには、まだ数時間ある。
ソン・テクは、決死の覚悟で地下へと繋がる秘密の出入り口を探すことにした。
トイレの中に秘密のドアがあるのではないのか。壁の向こうに秘密の階段があるのではないのか。壁にかけられた絵の裏に秘密の扉を開くスイッチがあるのではないのか。エレベータのボタンがコードになっており、特定の番号を押すと地下まで降りていくのではないのか。
「苹陽館ナイト」はなかった。
その後、ソン・テクがどうなったのか知る者はいない。
(完)

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参考資料:Daily NK Japan、「金正恩氏が「美人ホステス」をしいたげるセコいやり口」、https://dailynk.jp/archives/125404