「母なる祖国の懐に抱かれ再び生まれ変わった、南朝鮮傀儡一味に誘引された女性、国内外記者と会見」(2012年6月29日 「労働新聞」)
6月29日に「朝鮮中央通信」で同様の動画(約8分)が配信され見たのだが、録音状態があまり良くなかったので、この女性の発言がうまく聞き取れなかった。今日再びチャレンジしようと思っていたところ、インタビューの内容が掲載された記事が同日の「労働新聞」に掲載されているのを見つけた。動画の発言と「労働新聞」の記事との重ね合わせはしていないが、そもそもこの女性は机の上に置かれた紙を見ながら話をしているので、事前にチェックされた内容のはずである。だとすれば、「労働新聞」にはそれに基づいた記事が掲載されるはずなので、大きな違いはないはずだ。
「労働新聞」:
http://www.rodong.rep.kp/InterKo/index.php?strPageID=SF01_02_01&newsID=2012-06-29-0035
記者会見場には、北朝鮮メディアの記者や在外北朝鮮系メディアの記者の他に、中国、ロシア、米国、日本の記者が集まったとのことである。動画で確認できたのはロシア人の記者で、ロシア語で質問をしている。その他にもバッジを付けていない東洋人の姿も見られたので、彼らが中国や日本の記者であろう。動画には、ロシア人以外の白人系の人は映っていなかったので、米国(平壌に支局を置くAP通信であろう)からは東洋人系の記者が派遣されたのであろう。APの記事はまだ確認していない。
動画ではカットされており8分のインタビューであるが、「労働新聞」の記事はかなり長い。脱北者(北朝鮮に戻っていない)による脱北経路の説明は日本のメディアでもしばしば紹介されるが、北朝鮮による説明はこれまでになかったのではないだろうか。それを肯定的に紹介するのか否定的に紹介するのかの違いこそあれ、、重複する部分もありなかなか興味深い。そんなこともあるので、大変だが、全訳をしておく(誤訳御免)。
朝鮮中央通信社記者:傀儡共の誘因戦術にひっかかり、南朝鮮に連れて行かれたということだが、それについて具体的に話して欲しい。
答え:敵の誘いに引っかかり、犯罪の道に進むことになったのは、全て私の思想精神状態が誤っていたことに端を発っしている。その時、私の頭の中では、母なる祖国と共に生きながら強盛国家建設にこの身を捧げることに生き甲斐を見いだすという考えよりも、自分だけを考える利己主義思想が大きく支配していた。結局、目前の困難を考え、後には南朝鮮にいる父と中国で会い、金をもらおうという妄想まで抱くようになった。そして、2006年3月29日夜、不法越境をした。
父に会い金をもらうという愚かな考えを抱き、国外に踏み出した歩みが国に対してどれほど大きな罪を犯す道なのかが全く分からなかった。中国東北地方に至った私は、胸を締め付けられながら寝るところを探してあちこち彷徨った後、とある煉瓦造りの家でドアを開けてくれたので、その家に入った。その家の主人は、朝鮮語を話すことができたが、事情を聞いて息子と何か話し合った後で、私をかくまってくれた。
ある日、家の主人が、「ある人から電話がかかってくるが、尋ねられることに答え、他のことは一切話すな」と言った。その後、電話がかかってきて、電話をしてきた人は私の名前と生年月日、兄弟の関係を聞いて電話を切った。そして、3、4日が過ぎ、家の主人が私に「お父さんに会うためには、船に乗って青島に行かなければならない」言い、私を車に乗せて大連のある場所に連れて行った。
そこで、約1週間滞在していたのだが、ある日「社長」という人が来て、私の写真を撮ったのであった。後で知った事実であるが、その人は傀儡共に買収され、北朝鮮人を南朝鮮に無理矢理連れて行くことを業とする奴であった。
2日後、その人が現れ、「お父さんに会いに行こう」と言いながら、(私を)車に乗せてどこかに行ったであった。こうして、私は、傀儡共の脚本に従い、いろいろな奴に手渡されたのであった。
6月28日午後4時頃、丹東港で一人の女性と共に「青島に行く船」に乗せられた。次の日朝9時頃、船が停泊すると一緒に船に乗ったその女性は、私の偽造証明書を海に投げ捨て、船から下りた。そして、ある建物の1階にあるトイレの前に私を立たせて「誰かが来るから(待っていろ)」と言って行ってしまった。
続いて、ある男が建物の3階に(私を)連れて行った。ドアを開いて部屋に入ると、面長の威張った人が机の上に置かれている紙の箱から何か飲むものを取り出し「真実だけを話させる薬だ」と瓶をこすりながら、「ここが南の地」だと言った。その時になって、私は南朝鮮に足を踏み入れたことを知った。
私は「青島に行く人なのだが、間違った船に乗ってしまったようだ。その船に乗って直ぐに帰る」と大きな声で訴えた。しかし、奴らは、泣きながら足をばたばたさせる私に「ここは、行きたければ思い通りに行けるところではない」と言いながら、ついには(私を)車に乗せてどこかに連れて行った。
私は、奴らに「父にお会うとして、南に間違ってきたのだから、早く帰してくれ」、そして「父に合わせてくれ」と強く求めたが、聞こうともしなかった。奴らは、共和国(北朝鮮)での経歴と生活経緯などを尋ね、それについて書かせて、同情をしたり脅したりしながら、私を嘲りながら侮辱をした。
ある時は、「探検室」と書かれた部屋に私をひっぱていき、手足と胸に電器コードを貼り付けて電気を流しながら、尋ねることに正直に答えろと脅迫した。今でも恐ろしい恐怖と圧迫の中で苦しんだことを考えると、夢にうなされて目が覚めてしまう。
こうして、20日ほど取り調べを受けた後で、やっと奴らに連れられて父に会いに行った。しかし、病院のベッドに横たわる父は、脳手術を受け、見ることも聞くこともできない植物人間になった状態であった。その時になって初めて、私は奴らに騙されたということを悟った。父は、私の顔も見られないまま、死んでしまった。
今も我が共和国周辺では、傀儡情報部員から金をもらい、北朝鮮住民を誘拐する奴が罠を仕掛けて、獲物がかかるのを待っている。
総連朝鮮新報記者:朴チョンスクさんは、南朝鮮に連れて行かれて6年間そこで生活したわけだが、その間の暮らしを話して欲しい。
答え:父は死んでしまったが、北朝鮮出身の兄弟もいたし親戚もいたので、彼らの助けを受けながら何とか生活できるだろうと考えた。しかし、それは甘い考えだった。北朝鮮出身の兄弟たちは、会っても口だけで、特に自分たちに被害が及ぶのではないかと、いつも私を警戒している様子だった。しかたなく、80才の従兄弟の家を訪ね、病んでいる兄の看病をしながら暮らしたが、親戚の家に居候するということは、口ほどに簡単なことではなかった。
経済的な負担のためにこれ以上いられなくなり、従兄弟が紹介してくれたある老人の家で介護の仕事をした。後には、動くこともできず、トイレにも行くことができない90才の老人の家で、彼の面倒を見た。まさに、金で売られた可憐な奴隷と違いなかった。
羞恥心と侮辱に耐えながら、地下鉄駅やマンションの廊下、エレベータの掃除など、できる仕事であれば何でもした。こうして何とか暮らしていたが、それに加えて、一挙一投足に対する監視や電話の盗聴がしつこく続き、恐怖と不安、焦燥感の中で生きなければならなかった。
ある時、李ウォンジュという女性の紹介で工業燃料を生産するある会社に行ったのだが、社長に騙された。悔しくて毎日会社行ったが、馬鹿にされるだけであった。そのことばかり考えていたので、自分の体を支えることができず、地下鉄の階段から転げ落ちて膝に怪我をした。しかし、金がなく怪我した足の治療を受けることができず、今でもうまく歩くことができない。
南朝鮮は、本当に腐って病んだ社会だ。通りに出ても、あちこちが人々を誘惑する言葉と広告のバトルで、何が何だか分からない。テレビを付けても、全て低俗で退廃的なので、見ていると頭が痛くなり消してしまった。
聞こえてくる話も「貴金属店の店主に薬を入れた酒を飲ませて、金品を奪った」だの「医者が患者に詐欺行為をした」だの「父親を法廷に呼び出し、土地と財産を取り上げた」だの「愛人を水に沈めて殺し、保険金をだまし取った」だの「10代の子供が火を付けて無理心中した」といったたぐいの話ばかりだ。
険悪な世の中で人々は、何をしてでも生きていくための金を作らなければならなかった。昨年10月のある日、夜中に突然息が苦しくなり警察病院に行ったことがある。医者という奴は、「命が危ないので早く保護者に連絡しろ」と言った。保護者はいないというと、それなら入院することはできないと言い、家に帰されたのであった。私は息ができない上に、夜中に戻っても、また病院に来ることになるので、病院の廊下に少し座って落ち着かせてくれと哀願した。しかし、そいつは、頑として聞かず、私を病院の外につまみ出すか、それが嫌なら早く保護者に連絡しろと怒鳴るのであった。怒りがこみ上げ、「もういい」と大声を出そうとしたときに気を失った。医者が患者の保護者を求めるのは、私が死んだ場合の治療費を受け取るためであった。我が共和国では想像もできないことである。
傀儡当局者たちは、誰でも一生懸命働けば良い暮らしができる社会、正義と民主主義が川の水のごとく流れる社会と口癖のようにまくし立てている。しかし、それは全ての人々を騙すための詭弁である。仕事がなく、失業者が溢れ、社会悪が蔓延し、金が全てを支配し、人間の情を見いだすことができない社会、人々を精神文化的に堕落させる腐って病んだ社会がまさに南朝鮮である。
ロシア・イタルタス通信記者:一部の人々が、朴チョンスクさんのように南朝鮮に行くのだが、彼らの生活状況や実態がどうなのか話して欲しい。
答え:南朝鮮の傀儡共は、我が共和国で暮らして、南朝鮮に行った人々を「脱北者」と呼んでいる。その中には、祖国と人民を裏切り、逃亡した反逆者もいるが、奴らが言う「脱北者」は、私のように一時的な生活難や親戚訪問、仕事の関係などの理由で中国をはじめとした周辺国家に行き、傀儡共の誘因、拉致、買収などに引っかかり南朝鮮に連れて行かれた人々である。彼らは、南朝鮮の地に足を付けると直ぐに、傀儡情報院に連れて行かれ、重罪人扱いを受ける。初めの10日間余りは、独房に入れられ、外部と完全に遮断された状態で、一言も話せない状態で人権を無残に蹂躙される。そうでなければ、昨年、南朝鮮の保守系メディアが「脱北者」の独房を問題視する記事を書かなかったであろう。
審問を受ける期間、彼らは監視者の過酷で冷たい待遇の下で、トイレさえ満足に使わせてもらえず、女性の場合は、取調官共の性的なおもちゃにされてしまう。
こうして、一月あるいはそれ以上、傀儡情報院で全ての精神・肉体的苦痛を受けて出てくると、「ハナ院」というところに移されるが、そこもまた監獄と変わらない。「ハナ院」は、「脱北者」に「教育」をするというところであるが、朝5時に教育に連れて行かれ、終日、反共思想を吹き込まれ、資本主義社会の腐った思想文化と弱肉強食の法則を注入される。こうしたうんざりするような場所で3ヶ月間担当官の横暴な圧迫と統制、四方に設置されたカメラの監視の中で外出、面会、電話もできない。
こうして、奴らの執拗な検討と「教育」を終えると、社会に投げ出されるのであるが、この時から嘲笑と蔑視、羞恥と冒涜を受けながら、熾烈な生存競争の中で生き残らなければならない。
「脱北者」に与えられる仕事といえば、汚物清掃、皿洗い、身の回りの世話など、誰もやりたがらない最も卑賤でつらい仕事だけである。女性の場合、風俗店の間で売買されたり、淫乱画像撮影に出演させられるなど、どん底に落ちてしまう。
特に、彼らの「住民登録証」には、別途の番号が記載されており、どこに行っても無視されてしまう。
激しい生活難と陰のようにつきまとう社会的な冷遇や疎外で、彼らは精神的に不安定になったり慢性的な疲労感などで様々の病気に苦しんでいる。
何とか職に就いても、また職を失うのではないかと日々心配しながら、ありとあらゆるつらい仕事をさせられながら、病気になっても金がないので十分な治療受けられず死ぬ以外の道はない。そのため、皆堕落して麻薬や詐欺、性売買などの犯罪の道に陥る。
出版物などの資料によれば、南朝鮮が世界的に自殺率が1位で、その中でも「脱北者」の自殺率はその他の人の5倍に達する。金オクランという若い女性は、私に「南朝鮮社会に幻滅を感じる。共和国に帰る決心をした」と言いながら、費用を調達するために、ある風俗店でありとあらゆる侮辱と恥辱を受けながら働いた。しかし、金を受け取ることができなかったので、絶望して自殺してしまった。
現在、「脱北者」は、一生懸命働けば何とかなるだろうという希望を持って努力しているが、どんどん困難になる悲惨な生活状況を嘆き、後で後悔をしている。そして、名節や誕生日は、故郷を懐かしみ、祖国を忘れることができずに涙の日々を送っている。今、彼らは乱れた南朝鮮社会を呪い、自身を恨み、共和国に戻ることを切実に希望している。しかし、自身が国に対し犯した罪のせいで、その決心をできずにおり、監視と統制が陰ようにつきまとうので、どうもしようがなくなっている。
私は、この機会に彼らに言いたい。本意であれ本意でなかれ、母なる祖国を離れた人々は、今でも人間らしく生きようとするのであれば、乱れた南朝鮮社会を蹴り飛ばし、共和国の懐に躊躇なく帰ってこなければならない、と。母なる祖国は、私のように過ちを心から反省し、共和国の懐に戻ってくる人々に対しては、寛大に容赦し、暖かく抱いてくれる。
平壌タイムス記者:今、傀儡一味が「脱北者」を通じた反共和国謀略策動に狂奔しているが、これについて南朝鮮で直接見聞きしたり、経験した事実があれば話して欲しい。
答え:私が南朝鮮にいるとき、傀儡政府と国会、メディアなどからいつも聞こえてくる話は、「脱北者」問題だの「北人権」問題だのということだった。今、傀儡一味は「北人権」騒ぎに「脱北者」を利用しているが、傀儡共が取り上げる人々は、我が制度に対して恨みを抱いていたり、共和国で犯罪を犯して逃げ出した汚い人間の屑共である。このような醜い人間の屑は、傀儡保守一味の庇護を受けながら、僅かな金を求めて、反共和国対決に狂奔している。
今、傀儡一味は反共和国対決宣伝のための手段と方法を選ばない。「赤十字団体」とか「ボランティア」とかいう名目で「脱北者」に金を与えながら、我が共和国をからかい、南朝鮮社会を美化粉飾するありとあらゆる虚偽とたちの悪い話を広げたり、スローガンを叫びながらデモまで主導している。嘘で反共和国対決を扇動するので、行くのを嫌がり、乱闘劇が展開されることが多く、金で誘うという方法を考え出したのである。
いつだったか、傀儡メディアで「脱北者」が中国に行き、北に捕まった大騒ぎしたことがあった。後で分かったことだが、逆賊一味が反共和国謀略宣伝のために南朝鮮でもう生活することができずに海を越えていったり、既に死んだ人の名前まで利用して作り上げた話であった。
人々にどうやって南朝鮮に来たのか聞くと、飲食店で会って大金と高級品をくれる人たちに誘われて来たという人、酒に酔ってトイレに入ったら刃物で脅されて連れてこられた人、女性は誘惑に騙されて来た人など様々である。
本当の人権蹂躙の親玉は、他でもない李明博一味である。
今日、傀儡一味が「脱北者」問題について騒ぎ続け、汚い人間の屑共を使って我が共和国のイメージを引きずり下ろそうともがいているが、これこそまったく意味のないことである。
中国・新華社通信記者:どうして共和国へ戻ってきたのかについて話して欲しい。
答え:もともと、私は中国で父と会い、助けを得た後で再び共和国に戻る決心をしていた。しかし、その愚かな打算が傀儡情報員の魔手にかかり、水泡のように消えてしまったが、南朝鮮に連れて行かれている間、共和国に対する思い、祖国に帰ろうとする思いを忘れたことはなかった。そして、その目的を達成しようと数えられないほどの努力をしたが、ばれると困るので誰かに話をすることもできず、また金も必要だった。祖国に帰りたかったが、あまりにも漠然とした考えで、絶望と虚無感に陥り憂鬱な日々を送っていた。
そうな日々を送っていた昨年8月、テレビの画面でロシア連邦についての歴史的な訪問をされた偉大な金正日将軍様の尊い映像を見た。人民の幸福のためにお疲れになったお体も気にされず、シベリヤ、極東地域にまで行かれた父なる将軍様のお姿を拝見し、祖国を捨てて汚いどぶの中で彷徨う自身を恨んだ。
複雑な私の家庭を処罰することなく、70回目の誕生日を迎える母に誕生日賞も与えて下さり、子供を平壌音楽舞踊大学(当時)を卒業させて下さい、教壇に立たさせて下さり、兄弟を過分に評価して下さった将軍様の恩恵に報いることができない辛さ、私は今、どこに来て何をしているのかという考えで、心臓が張り裂けそうになった。
決断して行動できない自分を叱責し、例え死んでも祖国に帰らなければならないという決心を固くした。そして昨年12月、我が人民に良い生活をさせようとご苦労されていた偉大な将軍様が野戦列車であまりにも意外にお亡くなりなったという青天の霹靂のような悲報に接し、祖国の空を見上げながら泣いた。将軍様の元に戻り、土下座をして誤ろうと思ったのに、どうしたことか。死んでも祖国に戻り、その地に埋められたい。私の全ての精神は、共和国へ向かい、これ以上怖いものはなかった。
私は、傀儡情報員の監視をかいくぐり、恨めしい南朝鮮の地を離れ、夢にも見た母なる祖国、共和国の懐に再び抱かれた。
民主朝鮮社記者:そんなにも懐かしい祖国の懐に抱かれて、共和国に帰ってきた今の気持ちがどうか話して欲しい。
答え:母なる祖国は、足を踏み外して奈落の底に落ちた私に命の水を与えてくれた。高鳴る胸をおさえ、飛行機のタラップから下りる私を関係者が出迎えてくれたとき、本当に驚き呆然とした。手錠をかけられても、返す言葉もない私であった。その夜、私は星が輝く平壌の夜空を見て考えた。祖国とは、二つの文字がそうであるように、情深く大きなところだなあ、私は、今、死んでも構わない。
しかし、その時になっても、どれほど大きな愛と恩情が私を待っているのか想像もできなかった。敬愛する金正恩将軍様は、私の罪深い過去を少しも責められずに、大海のような愛と恩情を抱かせて下さった。金正恩将軍様は、罪人と変わらない私を金ウォンギュン名称平壌音楽大学の教壇に立っている息子と共に平壌で一緒に暮らせるようにして下さった。私は、他の人が腰を曲げて強盛国家建設に血と汗を流しているとき、自分だけ良い暮らしをしようと母なる祖国を捨てた、恩知らずの徳のない罪人だ。二度目の人生を抱かせて下さった敬愛する金正恩将軍様に感謝の挨拶を捧げるために、万寿台の丘に高く頂いた偉大な首領様と父なる将軍様の銅像を訪ねた。過ぎた日々を贖罪し、大元帥様に捧げることができなかった忠誠の情と合わせ、敬愛する金正恩将軍様をきれいな良心で頂くことを固く誓った。敬愛する金正恩将軍様のような方はこの世にいない。
偉大な大元帥様と全く同じであられる敬愛する金正恩将軍様がいらっしゃり、私は再び生まれ変わった。
<結>
「労働新聞」の記事を半ばまで読んで、どうせならと翻訳を始めたのだが、長かった。途中で挫折しかかったが、午前を潰してなんとかやった。コメントも書きたいのだが、かなり疲れたし、そのうちに追記として書こうと思う。朴さんは、最後に息子と嫁と一緒に「忘れられぬ私の道」を熱唱した。
「労働新聞」:
http://www.rodong.rep.kp/InterKo/index.php?strPageID=SF01_02_01&newsID=2012-06-29-0035
記者会見場には、北朝鮮メディアの記者や在外北朝鮮系メディアの記者の他に、中国、ロシア、米国、日本の記者が集まったとのことである。動画で確認できたのはロシア人の記者で、ロシア語で質問をしている。その他にもバッジを付けていない東洋人の姿も見られたので、彼らが中国や日本の記者であろう。動画には、ロシア人以外の白人系の人は映っていなかったので、米国(平壌に支局を置くAP通信であろう)からは東洋人系の記者が派遣されたのであろう。APの記事はまだ確認していない。
動画ではカットされており8分のインタビューであるが、「労働新聞」の記事はかなり長い。脱北者(北朝鮮に戻っていない)による脱北経路の説明は日本のメディアでもしばしば紹介されるが、北朝鮮による説明はこれまでになかったのではないだろうか。それを肯定的に紹介するのか否定的に紹介するのかの違いこそあれ、、重複する部分もありなかなか興味深い。そんなこともあるので、大変だが、全訳をしておく(誤訳御免)。
朝鮮中央通信社記者:傀儡共の誘因戦術にひっかかり、南朝鮮に連れて行かれたということだが、それについて具体的に話して欲しい。
答え:敵の誘いに引っかかり、犯罪の道に進むことになったのは、全て私の思想精神状態が誤っていたことに端を発っしている。その時、私の頭の中では、母なる祖国と共に生きながら強盛国家建設にこの身を捧げることに生き甲斐を見いだすという考えよりも、自分だけを考える利己主義思想が大きく支配していた。結局、目前の困難を考え、後には南朝鮮にいる父と中国で会い、金をもらおうという妄想まで抱くようになった。そして、2006年3月29日夜、不法越境をした。
父に会い金をもらうという愚かな考えを抱き、国外に踏み出した歩みが国に対してどれほど大きな罪を犯す道なのかが全く分からなかった。中国東北地方に至った私は、胸を締め付けられながら寝るところを探してあちこち彷徨った後、とある煉瓦造りの家でドアを開けてくれたので、その家に入った。その家の主人は、朝鮮語を話すことができたが、事情を聞いて息子と何か話し合った後で、私をかくまってくれた。
ある日、家の主人が、「ある人から電話がかかってくるが、尋ねられることに答え、他のことは一切話すな」と言った。その後、電話がかかってきて、電話をしてきた人は私の名前と生年月日、兄弟の関係を聞いて電話を切った。そして、3、4日が過ぎ、家の主人が私に「お父さんに会うためには、船に乗って青島に行かなければならない」言い、私を車に乗せて大連のある場所に連れて行った。
そこで、約1週間滞在していたのだが、ある日「社長」という人が来て、私の写真を撮ったのであった。後で知った事実であるが、その人は傀儡共に買収され、北朝鮮人を南朝鮮に無理矢理連れて行くことを業とする奴であった。
2日後、その人が現れ、「お父さんに会いに行こう」と言いながら、(私を)車に乗せてどこかに行ったであった。こうして、私は、傀儡共の脚本に従い、いろいろな奴に手渡されたのであった。
6月28日午後4時頃、丹東港で一人の女性と共に「青島に行く船」に乗せられた。次の日朝9時頃、船が停泊すると一緒に船に乗ったその女性は、私の偽造証明書を海に投げ捨て、船から下りた。そして、ある建物の1階にあるトイレの前に私を立たせて「誰かが来るから(待っていろ)」と言って行ってしまった。
続いて、ある男が建物の3階に(私を)連れて行った。ドアを開いて部屋に入ると、面長の威張った人が机の上に置かれている紙の箱から何か飲むものを取り出し「真実だけを話させる薬だ」と瓶をこすりながら、「ここが南の地」だと言った。その時になって、私は南朝鮮に足を踏み入れたことを知った。
私は「青島に行く人なのだが、間違った船に乗ってしまったようだ。その船に乗って直ぐに帰る」と大きな声で訴えた。しかし、奴らは、泣きながら足をばたばたさせる私に「ここは、行きたければ思い通りに行けるところではない」と言いながら、ついには(私を)車に乗せてどこかに連れて行った。
私は、奴らに「父にお会うとして、南に間違ってきたのだから、早く帰してくれ」、そして「父に合わせてくれ」と強く求めたが、聞こうともしなかった。奴らは、共和国(北朝鮮)での経歴と生活経緯などを尋ね、それについて書かせて、同情をしたり脅したりしながら、私を嘲りながら侮辱をした。
ある時は、「探検室」と書かれた部屋に私をひっぱていき、手足と胸に電器コードを貼り付けて電気を流しながら、尋ねることに正直に答えろと脅迫した。今でも恐ろしい恐怖と圧迫の中で苦しんだことを考えると、夢にうなされて目が覚めてしまう。
こうして、20日ほど取り調べを受けた後で、やっと奴らに連れられて父に会いに行った。しかし、病院のベッドに横たわる父は、脳手術を受け、見ることも聞くこともできない植物人間になった状態であった。その時になって初めて、私は奴らに騙されたということを悟った。父は、私の顔も見られないまま、死んでしまった。
今も我が共和国周辺では、傀儡情報部員から金をもらい、北朝鮮住民を誘拐する奴が罠を仕掛けて、獲物がかかるのを待っている。
総連朝鮮新報記者:朴チョンスクさんは、南朝鮮に連れて行かれて6年間そこで生活したわけだが、その間の暮らしを話して欲しい。
答え:父は死んでしまったが、北朝鮮出身の兄弟もいたし親戚もいたので、彼らの助けを受けながら何とか生活できるだろうと考えた。しかし、それは甘い考えだった。北朝鮮出身の兄弟たちは、会っても口だけで、特に自分たちに被害が及ぶのではないかと、いつも私を警戒している様子だった。しかたなく、80才の従兄弟の家を訪ね、病んでいる兄の看病をしながら暮らしたが、親戚の家に居候するということは、口ほどに簡単なことではなかった。
経済的な負担のためにこれ以上いられなくなり、従兄弟が紹介してくれたある老人の家で介護の仕事をした。後には、動くこともできず、トイレにも行くことができない90才の老人の家で、彼の面倒を見た。まさに、金で売られた可憐な奴隷と違いなかった。
羞恥心と侮辱に耐えながら、地下鉄駅やマンションの廊下、エレベータの掃除など、できる仕事であれば何でもした。こうして何とか暮らしていたが、それに加えて、一挙一投足に対する監視や電話の盗聴がしつこく続き、恐怖と不安、焦燥感の中で生きなければならなかった。
ある時、李ウォンジュという女性の紹介で工業燃料を生産するある会社に行ったのだが、社長に騙された。悔しくて毎日会社行ったが、馬鹿にされるだけであった。そのことばかり考えていたので、自分の体を支えることができず、地下鉄の階段から転げ落ちて膝に怪我をした。しかし、金がなく怪我した足の治療を受けることができず、今でもうまく歩くことができない。
南朝鮮は、本当に腐って病んだ社会だ。通りに出ても、あちこちが人々を誘惑する言葉と広告のバトルで、何が何だか分からない。テレビを付けても、全て低俗で退廃的なので、見ていると頭が痛くなり消してしまった。
聞こえてくる話も「貴金属店の店主に薬を入れた酒を飲ませて、金品を奪った」だの「医者が患者に詐欺行為をした」だの「父親を法廷に呼び出し、土地と財産を取り上げた」だの「愛人を水に沈めて殺し、保険金をだまし取った」だの「10代の子供が火を付けて無理心中した」といったたぐいの話ばかりだ。
険悪な世の中で人々は、何をしてでも生きていくための金を作らなければならなかった。昨年10月のある日、夜中に突然息が苦しくなり警察病院に行ったことがある。医者という奴は、「命が危ないので早く保護者に連絡しろ」と言った。保護者はいないというと、それなら入院することはできないと言い、家に帰されたのであった。私は息ができない上に、夜中に戻っても、また病院に来ることになるので、病院の廊下に少し座って落ち着かせてくれと哀願した。しかし、そいつは、頑として聞かず、私を病院の外につまみ出すか、それが嫌なら早く保護者に連絡しろと怒鳴るのであった。怒りがこみ上げ、「もういい」と大声を出そうとしたときに気を失った。医者が患者の保護者を求めるのは、私が死んだ場合の治療費を受け取るためであった。我が共和国では想像もできないことである。
傀儡当局者たちは、誰でも一生懸命働けば良い暮らしができる社会、正義と民主主義が川の水のごとく流れる社会と口癖のようにまくし立てている。しかし、それは全ての人々を騙すための詭弁である。仕事がなく、失業者が溢れ、社会悪が蔓延し、金が全てを支配し、人間の情を見いだすことができない社会、人々を精神文化的に堕落させる腐って病んだ社会がまさに南朝鮮である。
ロシア・イタルタス通信記者:一部の人々が、朴チョンスクさんのように南朝鮮に行くのだが、彼らの生活状況や実態がどうなのか話して欲しい。
答え:南朝鮮の傀儡共は、我が共和国で暮らして、南朝鮮に行った人々を「脱北者」と呼んでいる。その中には、祖国と人民を裏切り、逃亡した反逆者もいるが、奴らが言う「脱北者」は、私のように一時的な生活難や親戚訪問、仕事の関係などの理由で中国をはじめとした周辺国家に行き、傀儡共の誘因、拉致、買収などに引っかかり南朝鮮に連れて行かれた人々である。彼らは、南朝鮮の地に足を付けると直ぐに、傀儡情報院に連れて行かれ、重罪人扱いを受ける。初めの10日間余りは、独房に入れられ、外部と完全に遮断された状態で、一言も話せない状態で人権を無残に蹂躙される。そうでなければ、昨年、南朝鮮の保守系メディアが「脱北者」の独房を問題視する記事を書かなかったであろう。
審問を受ける期間、彼らは監視者の過酷で冷たい待遇の下で、トイレさえ満足に使わせてもらえず、女性の場合は、取調官共の性的なおもちゃにされてしまう。
こうして、一月あるいはそれ以上、傀儡情報院で全ての精神・肉体的苦痛を受けて出てくると、「ハナ院」というところに移されるが、そこもまた監獄と変わらない。「ハナ院」は、「脱北者」に「教育」をするというところであるが、朝5時に教育に連れて行かれ、終日、反共思想を吹き込まれ、資本主義社会の腐った思想文化と弱肉強食の法則を注入される。こうしたうんざりするような場所で3ヶ月間担当官の横暴な圧迫と統制、四方に設置されたカメラの監視の中で外出、面会、電話もできない。
こうして、奴らの執拗な検討と「教育」を終えると、社会に投げ出されるのであるが、この時から嘲笑と蔑視、羞恥と冒涜を受けながら、熾烈な生存競争の中で生き残らなければならない。
「脱北者」に与えられる仕事といえば、汚物清掃、皿洗い、身の回りの世話など、誰もやりたがらない最も卑賤でつらい仕事だけである。女性の場合、風俗店の間で売買されたり、淫乱画像撮影に出演させられるなど、どん底に落ちてしまう。
特に、彼らの「住民登録証」には、別途の番号が記載されており、どこに行っても無視されてしまう。
激しい生活難と陰のようにつきまとう社会的な冷遇や疎外で、彼らは精神的に不安定になったり慢性的な疲労感などで様々の病気に苦しんでいる。
何とか職に就いても、また職を失うのではないかと日々心配しながら、ありとあらゆるつらい仕事をさせられながら、病気になっても金がないので十分な治療受けられず死ぬ以外の道はない。そのため、皆堕落して麻薬や詐欺、性売買などの犯罪の道に陥る。
出版物などの資料によれば、南朝鮮が世界的に自殺率が1位で、その中でも「脱北者」の自殺率はその他の人の5倍に達する。金オクランという若い女性は、私に「南朝鮮社会に幻滅を感じる。共和国に帰る決心をした」と言いながら、費用を調達するために、ある風俗店でありとあらゆる侮辱と恥辱を受けながら働いた。しかし、金を受け取ることができなかったので、絶望して自殺してしまった。
現在、「脱北者」は、一生懸命働けば何とかなるだろうという希望を持って努力しているが、どんどん困難になる悲惨な生活状況を嘆き、後で後悔をしている。そして、名節や誕生日は、故郷を懐かしみ、祖国を忘れることができずに涙の日々を送っている。今、彼らは乱れた南朝鮮社会を呪い、自身を恨み、共和国に戻ることを切実に希望している。しかし、自身が国に対し犯した罪のせいで、その決心をできずにおり、監視と統制が陰ようにつきまとうので、どうもしようがなくなっている。
私は、この機会に彼らに言いたい。本意であれ本意でなかれ、母なる祖国を離れた人々は、今でも人間らしく生きようとするのであれば、乱れた南朝鮮社会を蹴り飛ばし、共和国の懐に躊躇なく帰ってこなければならない、と。母なる祖国は、私のように過ちを心から反省し、共和国の懐に戻ってくる人々に対しては、寛大に容赦し、暖かく抱いてくれる。
平壌タイムス記者:今、傀儡一味が「脱北者」を通じた反共和国謀略策動に狂奔しているが、これについて南朝鮮で直接見聞きしたり、経験した事実があれば話して欲しい。
答え:私が南朝鮮にいるとき、傀儡政府と国会、メディアなどからいつも聞こえてくる話は、「脱北者」問題だの「北人権」問題だのということだった。今、傀儡一味は「北人権」騒ぎに「脱北者」を利用しているが、傀儡共が取り上げる人々は、我が制度に対して恨みを抱いていたり、共和国で犯罪を犯して逃げ出した汚い人間の屑共である。このような醜い人間の屑は、傀儡保守一味の庇護を受けながら、僅かな金を求めて、反共和国対決に狂奔している。
今、傀儡一味は反共和国対決宣伝のための手段と方法を選ばない。「赤十字団体」とか「ボランティア」とかいう名目で「脱北者」に金を与えながら、我が共和国をからかい、南朝鮮社会を美化粉飾するありとあらゆる虚偽とたちの悪い話を広げたり、スローガンを叫びながらデモまで主導している。嘘で反共和国対決を扇動するので、行くのを嫌がり、乱闘劇が展開されることが多く、金で誘うという方法を考え出したのである。
いつだったか、傀儡メディアで「脱北者」が中国に行き、北に捕まった大騒ぎしたことがあった。後で分かったことだが、逆賊一味が反共和国謀略宣伝のために南朝鮮でもう生活することができずに海を越えていったり、既に死んだ人の名前まで利用して作り上げた話であった。
人々にどうやって南朝鮮に来たのか聞くと、飲食店で会って大金と高級品をくれる人たちに誘われて来たという人、酒に酔ってトイレに入ったら刃物で脅されて連れてこられた人、女性は誘惑に騙されて来た人など様々である。
本当の人権蹂躙の親玉は、他でもない李明博一味である。
今日、傀儡一味が「脱北者」問題について騒ぎ続け、汚い人間の屑共を使って我が共和国のイメージを引きずり下ろそうともがいているが、これこそまったく意味のないことである。
中国・新華社通信記者:どうして共和国へ戻ってきたのかについて話して欲しい。
答え:もともと、私は中国で父と会い、助けを得た後で再び共和国に戻る決心をしていた。しかし、その愚かな打算が傀儡情報員の魔手にかかり、水泡のように消えてしまったが、南朝鮮に連れて行かれている間、共和国に対する思い、祖国に帰ろうとする思いを忘れたことはなかった。そして、その目的を達成しようと数えられないほどの努力をしたが、ばれると困るので誰かに話をすることもできず、また金も必要だった。祖国に帰りたかったが、あまりにも漠然とした考えで、絶望と虚無感に陥り憂鬱な日々を送っていた。
そうな日々を送っていた昨年8月、テレビの画面でロシア連邦についての歴史的な訪問をされた偉大な金正日将軍様の尊い映像を見た。人民の幸福のためにお疲れになったお体も気にされず、シベリヤ、極東地域にまで行かれた父なる将軍様のお姿を拝見し、祖国を捨てて汚いどぶの中で彷徨う自身を恨んだ。
複雑な私の家庭を処罰することなく、70回目の誕生日を迎える母に誕生日賞も与えて下さり、子供を平壌音楽舞踊大学(当時)を卒業させて下さい、教壇に立たさせて下さり、兄弟を過分に評価して下さった将軍様の恩恵に報いることができない辛さ、私は今、どこに来て何をしているのかという考えで、心臓が張り裂けそうになった。
決断して行動できない自分を叱責し、例え死んでも祖国に帰らなければならないという決心を固くした。そして昨年12月、我が人民に良い生活をさせようとご苦労されていた偉大な将軍様が野戦列車であまりにも意外にお亡くなりなったという青天の霹靂のような悲報に接し、祖国の空を見上げながら泣いた。将軍様の元に戻り、土下座をして誤ろうと思ったのに、どうしたことか。死んでも祖国に戻り、その地に埋められたい。私の全ての精神は、共和国へ向かい、これ以上怖いものはなかった。
私は、傀儡情報員の監視をかいくぐり、恨めしい南朝鮮の地を離れ、夢にも見た母なる祖国、共和国の懐に再び抱かれた。
民主朝鮮社記者:そんなにも懐かしい祖国の懐に抱かれて、共和国に帰ってきた今の気持ちがどうか話して欲しい。
答え:母なる祖国は、足を踏み外して奈落の底に落ちた私に命の水を与えてくれた。高鳴る胸をおさえ、飛行機のタラップから下りる私を関係者が出迎えてくれたとき、本当に驚き呆然とした。手錠をかけられても、返す言葉もない私であった。その夜、私は星が輝く平壌の夜空を見て考えた。祖国とは、二つの文字がそうであるように、情深く大きなところだなあ、私は、今、死んでも構わない。
しかし、その時になっても、どれほど大きな愛と恩情が私を待っているのか想像もできなかった。敬愛する金正恩将軍様は、私の罪深い過去を少しも責められずに、大海のような愛と恩情を抱かせて下さった。金正恩将軍様は、罪人と変わらない私を金ウォンギュン名称平壌音楽大学の教壇に立っている息子と共に平壌で一緒に暮らせるようにして下さった。私は、他の人が腰を曲げて強盛国家建設に血と汗を流しているとき、自分だけ良い暮らしをしようと母なる祖国を捨てた、恩知らずの徳のない罪人だ。二度目の人生を抱かせて下さった敬愛する金正恩将軍様に感謝の挨拶を捧げるために、万寿台の丘に高く頂いた偉大な首領様と父なる将軍様の銅像を訪ねた。過ぎた日々を贖罪し、大元帥様に捧げることができなかった忠誠の情と合わせ、敬愛する金正恩将軍様をきれいな良心で頂くことを固く誓った。敬愛する金正恩将軍様のような方はこの世にいない。
偉大な大元帥様と全く同じであられる敬愛する金正恩将軍様がいらっしゃり、私は再び生まれ変わった。
<結>
「労働新聞」の記事を半ばまで読んで、どうせならと翻訳を始めたのだが、長かった。途中で挫折しかかったが、午前を潰してなんとかやった。コメントも書きたいのだが、かなり疲れたし、そのうちに追記として書こうと思う。朴さんは、最後に息子と嫁と一緒に「忘れられぬ私の道」を熱唱した。