「逸話で見る偉人像2」:「元帥様」の「偉人像」シリーズ2、「社会主義の背信者ゴルバチョフ」 (2017年1月28日 「uriminzokkiri」)
1月28日、uriminzokkiriに「元帥様」の「偉人」さを紹介する図書『逸話で見る偉人像 2』がアップロードされていた。同シリーズの1は、過去記事の中で全訳を試みたが、途中で止まったまま放置されている。そうこうしているうちに「2」が出版されたようだ。

Source: uriminzokkiri, 2017/01/28
いくつかの「逸話」を読んでみたが、そんなにおもしろいものはあまりない。「未来商店が伝える話」という逸話は、単にuriminzokkiriのアップロードの失敗だと思うが、途中で切れていた。コメント欄から投稿しようとしたが、何回やっても「接続が切れた」というメッセージが出て、投稿できなかった。
「元帥様」が『海豊漁歌』を歌ったとか、「徹夜をして仕事をするのが習慣になった」とか、「試運転中のマシンリョンスキー場のリフトに危険を顧みず乗り、それが新聞やテレビで紹介された」とか、「発展した国でも高価なので使えない特殊な芝をマシンリョンスキー場に植えさせた」とか、そんな話ばかりなのだが、旧ソ連の国防大臣に誕生日の祝電を送った話は少しおもしろかったので、全訳しておく。
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前国防相が受けた幸運
2014年1月のことだった。
モスクワにある家で治療を受けていた前ソ連国防相ヤゾフ(訳注:ドミトリー・ヤゾフ)は、意外な事実に驚かざるを得なかった。
朝鮮の最高領導者であられる敬愛する金正恩元帥様が、生誕90年を迎える自分に祝賀団を派遣して下さり、親しく祝賀親書と贈り物、花輪を送られたのであった。
11月8日、そのお方が送られた祝賀親書と贈り物、花輪を祝賀団の団長がヤゾフに丁重に伝達した。
崇高な国際主義的義理と熱い人間愛が染み込んでいる祝賀親書を受け取ったヤゾフは、激動した心情を次のように述べている。
「敬愛する金正恩同志が、ご多忙な中、私の誕生日をお忘れにならず、このように再び祝賀親書と贈り物、花輪を送って下さるとは夢にも思いませんでした。もう人生の終末にある身でも、少しも変わらず私のことを考えて下さるその高潔なお気持ちに何と申し上げたら・・・」
彼は、言葉を続けることができず、むせび泣いた。絶世偉人の祝福を受けながら、生きていく限りない幸福感で心臓が破裂しそうだった。
そうした彼には、2年前の誕生日を迎えたその日にも、万人が羨ましがる最上の特典を受けたことが、昨日のことのように思い出された。
そもそもヤゾフは典型的な軍人だった。
1924年11月8日、オムスク州の平凡な家庭で生まれた彼は、ソ独戦争(訳注:独ソ戦争)勃発と共に赤軍に志願し、レニングラード戦争(訳注:サンクトペテルブルク戦争)で戦い、極東軍管区司令官をはじめとした様々な職務を経て、1987年から1991年までソ連国防相を務めた。
社会主義偉業に対する信念が強いヤゾフは、1991年8月、社会主義背信者ゴルバチョフによりソ連が崩壊する危険に瀕したので、それを防ぐために国防非常事態委員会議を組織し、8月事変(訳注:ソ連8月クーデター)を起こした主要人物の中の一人であり、その「罪」で逮捕され、1年8ヶ月間、監獄生活をした。
1985年から2006年まで、朝鮮を10回訪問し、父なる首領様と偉大な将軍様と何回も接見した彼は、外国人としては、偉大な首領様の愛と配慮を誰よりも多く受けた人の中の一人であった。
そのため彼は、父なる首領様と偉大な将軍様に対する変わらぬ敬慕の情と、敬愛する元帥様に対する限りない魅惑と敬慕を胸に深く刻み、敬愛する元帥様に太陽節、光明星節など、機会事に祝賀電文を丁重に差し上げ、敬愛する元帥様が朝鮮労働党第1秘書として高く衰退されたことを祝賀し、治療を受けている不便な体ではあるが、モスクワ駐在朝鮮代表部を直接訪れ、元帥様に心のこもった贈り物を差し上げた。
まさにこうした彼を、敬愛する元帥様は格別な義理と情を持って見守って下さった。
2012年11月1日。
この日、敬愛するそのお方は、偉大な首領様と結んだ同志的義理と親密な関係を変わらず守っているヤゾフの誕生日をお忘れにならず、幹部に彼の誕生日と関連した貴重な教示をされた。
元帥様は、今年11月8日は、前ソ連国防相ヤゾフ誕生88周年となる日だと仰りながら、将軍様は生前に熱い同志愛と人間愛、崇高な道徳義理をもたれ、ヤゾフに温かく接して下さったと仰った。
そして、この機会にヤゾフにご自分の祝賀親書を送ると仰った。
その後、ヤゾフの誕生祝賀のために特使をモスクワに送り、ご自身の祝賀親書と贈り物、祝賀の花輪を丁重に伝達されながら、彼の誕生日を温かく祝賀してやることに関する教示を再び下さった。
敬愛する元帥様は、ご多忙中にもかかわらず、ヤゾフに送られる親書を直接書かれた。
そのお方は、11月5日、ご自身で書かれた祝賀親書の内容について述べられながら、ヤゾフは一生軍服を着て、軍人として生きており、将軍様と縁故関係が特に深かった人なので、彼に送る祝賀親書を同志的で人間的な情を込めて書いたと熱く語られた。
ついに11月8日が来た。
敬愛する元帥様がヤゾフに誕生88周年に際して送られる祝賀親書と贈り物、祝賀の花輪を伝達する行事が、彼の家で行われた。
血縁者と友人、軍部と経済、社会界の影響力ある人物が見守る中、祝賀親書が朗読されると、ヤゾフはずっと耐えていた涙を滝のように流した。
敬愛する元帥様は、祝賀親書でヤゾフを偉大な将軍様と血縁的で同志的な関係を結んだ最も近い同志中の一人とし、強大なロシアの今日のために正義の血を流した有名無名の英雄中の一人として評価して下さった。
文字に溢れる熱い情と限りなく高潔な義理の世界は、ヤゾフだけではなく、場内の全ての人々を泣かせた。全てのロシアの地が絶世偉人の崇高な愛と義理の世界に感服し、強く心を揺さぶられた。
行事が終わった後、ヤゾフは敬愛する元帥様の祝賀親書を何回も見ながら、深奥な意が込められている親書を自分の家庭の最も貴重な家宝として大切に保管すると言った。そして、1985年8月、朝鮮解放40周年慶祝行事に参加するためにソ連軍代表団のメンバーとして朝鮮を訪問し、偉大な金日成同志と金正日同志の接見を受けたときから卓越した偉人達と意義深い因縁を結ぶことになったこと、ソ連の崩壊と社会主義背信者達により政治的運命はもちろん、肉体的生命まで全て籠絡させられた自分に力と勇気を抱かせて下さり、限りない愛と配慮を施して下さった偉大な首領様達と敬愛する元帥様に対する感謝と懐かしさの情を切実に吐露した。・・・
深い感慨に浸っていたヤゾフに戦友が先に一杯注いでやった。
時間が流れるほどに誕生90年に集まった人々の中で、敬愛する元帥様を敬慕する称賛の話が絶えることなく続いた。
彼らは皆、ヤゾフに手向けて下さる敬愛する元帥様の愛と配慮に大きな感動を禁じ得ず、それを世界の歴史になかった特質すべき事変であると賛嘆した。
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して、お孫さん(「元帥様」)は、ヤゾフと会ったことがあるのだろうか。2014年11月、崔龍海が「元帥様」の特使としてロシアを訪れ、プーチンと会見したついでに90歳の老人にお孫さんについて説明して「感動」させたとすれば、崔龍海こそが「偉人」である。

Source: uriminzokkiri, 2017/01/28
いくつかの「逸話」を読んでみたが、そんなにおもしろいものはあまりない。「未来商店が伝える話」という逸話は、単にuriminzokkiriのアップロードの失敗だと思うが、途中で切れていた。コメント欄から投稿しようとしたが、何回やっても「接続が切れた」というメッセージが出て、投稿できなかった。
「元帥様」が『海豊漁歌』を歌ったとか、「徹夜をして仕事をするのが習慣になった」とか、「試運転中のマシンリョンスキー場のリフトに危険を顧みず乗り、それが新聞やテレビで紹介された」とか、「発展した国でも高価なので使えない特殊な芝をマシンリョンスキー場に植えさせた」とか、そんな話ばかりなのだが、旧ソ連の国防大臣に誕生日の祝電を送った話は少しおもしろかったので、全訳しておく。
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前国防相が受けた幸運
2014年1月のことだった。
モスクワにある家で治療を受けていた前ソ連国防相ヤゾフ(訳注:ドミトリー・ヤゾフ)は、意外な事実に驚かざるを得なかった。
朝鮮の最高領導者であられる敬愛する金正恩元帥様が、生誕90年を迎える自分に祝賀団を派遣して下さり、親しく祝賀親書と贈り物、花輪を送られたのであった。
11月8日、そのお方が送られた祝賀親書と贈り物、花輪を祝賀団の団長がヤゾフに丁重に伝達した。
崇高な国際主義的義理と熱い人間愛が染み込んでいる祝賀親書を受け取ったヤゾフは、激動した心情を次のように述べている。
「敬愛する金正恩同志が、ご多忙な中、私の誕生日をお忘れにならず、このように再び祝賀親書と贈り物、花輪を送って下さるとは夢にも思いませんでした。もう人生の終末にある身でも、少しも変わらず私のことを考えて下さるその高潔なお気持ちに何と申し上げたら・・・」
彼は、言葉を続けることができず、むせび泣いた。絶世偉人の祝福を受けながら、生きていく限りない幸福感で心臓が破裂しそうだった。
そうした彼には、2年前の誕生日を迎えたその日にも、万人が羨ましがる最上の特典を受けたことが、昨日のことのように思い出された。
そもそもヤゾフは典型的な軍人だった。
1924年11月8日、オムスク州の平凡な家庭で生まれた彼は、ソ独戦争(訳注:独ソ戦争)勃発と共に赤軍に志願し、レニングラード戦争(訳注:サンクトペテルブルク戦争)で戦い、極東軍管区司令官をはじめとした様々な職務を経て、1987年から1991年までソ連国防相を務めた。
社会主義偉業に対する信念が強いヤゾフは、1991年8月、社会主義背信者ゴルバチョフによりソ連が崩壊する危険に瀕したので、それを防ぐために国防非常事態委員会議を組織し、8月事変(訳注:ソ連8月クーデター)を起こした主要人物の中の一人であり、その「罪」で逮捕され、1年8ヶ月間、監獄生活をした。
1985年から2006年まで、朝鮮を10回訪問し、父なる首領様と偉大な将軍様と何回も接見した彼は、外国人としては、偉大な首領様の愛と配慮を誰よりも多く受けた人の中の一人であった。
そのため彼は、父なる首領様と偉大な将軍様に対する変わらぬ敬慕の情と、敬愛する元帥様に対する限りない魅惑と敬慕を胸に深く刻み、敬愛する元帥様に太陽節、光明星節など、機会事に祝賀電文を丁重に差し上げ、敬愛する元帥様が朝鮮労働党第1秘書として高く衰退されたことを祝賀し、治療を受けている不便な体ではあるが、モスクワ駐在朝鮮代表部を直接訪れ、元帥様に心のこもった贈り物を差し上げた。
まさにこうした彼を、敬愛する元帥様は格別な義理と情を持って見守って下さった。
2012年11月1日。
この日、敬愛するそのお方は、偉大な首領様と結んだ同志的義理と親密な関係を変わらず守っているヤゾフの誕生日をお忘れにならず、幹部に彼の誕生日と関連した貴重な教示をされた。
元帥様は、今年11月8日は、前ソ連国防相ヤゾフ誕生88周年となる日だと仰りながら、将軍様は生前に熱い同志愛と人間愛、崇高な道徳義理をもたれ、ヤゾフに温かく接して下さったと仰った。
そして、この機会にヤゾフにご自分の祝賀親書を送ると仰った。
その後、ヤゾフの誕生祝賀のために特使をモスクワに送り、ご自身の祝賀親書と贈り物、祝賀の花輪を丁重に伝達されながら、彼の誕生日を温かく祝賀してやることに関する教示を再び下さった。
敬愛する元帥様は、ご多忙中にもかかわらず、ヤゾフに送られる親書を直接書かれた。
そのお方は、11月5日、ご自身で書かれた祝賀親書の内容について述べられながら、ヤゾフは一生軍服を着て、軍人として生きており、将軍様と縁故関係が特に深かった人なので、彼に送る祝賀親書を同志的で人間的な情を込めて書いたと熱く語られた。
ついに11月8日が来た。
敬愛する元帥様がヤゾフに誕生88周年に際して送られる祝賀親書と贈り物、祝賀の花輪を伝達する行事が、彼の家で行われた。
血縁者と友人、軍部と経済、社会界の影響力ある人物が見守る中、祝賀親書が朗読されると、ヤゾフはずっと耐えていた涙を滝のように流した。
敬愛する元帥様は、祝賀親書でヤゾフを偉大な将軍様と血縁的で同志的な関係を結んだ最も近い同志中の一人とし、強大なロシアの今日のために正義の血を流した有名無名の英雄中の一人として評価して下さった。
文字に溢れる熱い情と限りなく高潔な義理の世界は、ヤゾフだけではなく、場内の全ての人々を泣かせた。全てのロシアの地が絶世偉人の崇高な愛と義理の世界に感服し、強く心を揺さぶられた。
行事が終わった後、ヤゾフは敬愛する元帥様の祝賀親書を何回も見ながら、深奥な意が込められている親書を自分の家庭の最も貴重な家宝として大切に保管すると言った。そして、1985年8月、朝鮮解放40周年慶祝行事に参加するためにソ連軍代表団のメンバーとして朝鮮を訪問し、偉大な金日成同志と金正日同志の接見を受けたときから卓越した偉人達と意義深い因縁を結ぶことになったこと、ソ連の崩壊と社会主義背信者達により政治的運命はもちろん、肉体的生命まで全て籠絡させられた自分に力と勇気を抱かせて下さり、限りない愛と配慮を施して下さった偉大な首領様達と敬愛する元帥様に対する感謝と懐かしさの情を切実に吐露した。・・・
深い感慨に浸っていたヤゾフに戦友が先に一杯注いでやった。
時間が流れるほどに誕生90年に集まった人々の中で、敬愛する元帥様を敬慕する称賛の話が絶えることなく続いた。
彼らは皆、ヤゾフに手向けて下さる敬愛する元帥様の愛と配慮に大きな感動を禁じ得ず、それを世界の歴史になかった特質すべき事変であると賛嘆した。
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して、お孫さん(「元帥様」)は、ヤゾフと会ったことがあるのだろうか。2014年11月、崔龍海が「元帥様」の特使としてロシアを訪れ、プーチンと会見したついでに90歳の老人にお孫さんについて説明して「感動」させたとすれば、崔龍海こそが「偉人」である。